先日、バンダイ静岡工場に見学に行ったのだけれど、せっかく東静岡に行くのだから、あの場所はまた見に行こうと決めていた。
もう一人の姉とも言える、R・Wさん。あの人のことを知ったのは、そう、二十歳だったか二十一の頃だったか、まだ大学生で、埼玉の川越近くで死にそうな独り暮らしをしていた頃だった。
家族間との確執のため、居場所を失い、無謀な独り暮らしを始めた。資金なんてほとんどなく、当時はまだ携帯電話もなく(持つことにかなりの嫌悪感を抱いていた)、バイトを探してもことごとく断られ、食べるものにもすぐに困るようになった。一日一食くらいだったか。晩御飯、インスタントものとか閉店間近のスーパーマーケットに行って半額になっていたパンを一つか二つ買って食べていた。部屋にはワープロ、食事用の簡素な机があるだけだった。テレビなんてないし、布団もちゃんとしていない。格安ショップで購入した枕と羽毛シーツみたいなものがあるだけだった(のちに掛け布団とパソコンデスクが加わったけど)。
でも、いいや、と思っていた。死ぬから別に、と。
室内の照明はつけず玄関近くの黄色い明かりだけを点けて、唯一、ラジオを聴くことだけを心の拠り所にして過ごしていた気がする。NHKのラジオドラマを聴いていたことは今でもはっきりと思い出せる。『悲しみの時計少女』や『イーシャの船』などが印象深い。
日に日に衰弱していっているのは自分でも感じていた。肉体的にも精神的にも。あまりの空腹さに体が痙攣して立てなくなったり、自分を刃物で傷つけたくなる衝動に見舞われたりと地獄を見た。そういうのを必死に堪えていた。。。
なんとか疲労を堪えてバイトとかしていたけど、とてもじゃないが続けられなかった。一日二日で精一杯。
そんな時だった。あの人の存在を知ったのは。
原因不明の病に苦しんできた若い看護婦さん。日記にはその時その時の苦しみや思いが克明に綴られていた。それがとあるメディアに取り上げられ世に知られることとなった。
体の不調から大学受験に失敗し、浪人生活を送っても再び大学受験に失敗し。家族に理解されない心の苦しさだとか、ものすごく共感してしまった。前半だけで自分に重なる部分が多く、自分を見ているようだった。
その人はその後、東静岡にある看護学校に通い、看護婦となる。とても良い看護婦さんだったそうだけど、病気が再発して辞めざるをえなく。
患者になってからの苦しみとか日記に描かれてあって、当時の気持ちが詳細に書かれてあったため壮絶な思いが伝わってきたし、生きる思いについても真摯に書かれてあった。苦しいけど生きたいと思う気持ち。その時の僕の『死』だけ見つめていた心には非常に強く感じるものがあった。
その人は二十代の若さで亡くなってしまっていたけれど、多くの人に多くの大切なものを遺していった。
僕も、創作作品の内容が『死』から『生』に変わっていったり、自分の思いを素直に綴る、という大切さも知った。
おかげで自分の内に閉じ込めておくだけだった苦しみを外に出そうとする気持ちも湧き上がった。自分が病気だったのでは? という考えも持てて、病院に行ってみようと思い立ったり、弱い自分を責め続けてきたけれど、自分を許せる気持ちも持てた。
すでに亡くなっていた人だけれど、変わるきっかけを与えてくれた大切な恩師のような人物だ。だから、もう一人の姉のような人。
もし、この人を知らなければ、川越のアパートにいたまま、どうなっていたか知れない。自分の気持ちを変えようとなんて思っていなかったかもしれない(といっても、川越から東京の祖父の実家に移った後も色々あったのだが……)。
東静岡はその人が生前、歩いていた場所。勉学に励んでいたり、仕事をしていた場所。
生きている間には会えなかった。だから、せめてその場所を歩いてみたいと思ったのだった。哀悼の意を捧げながら。
今回東静岡に行ったのは二回目となる。一回目は、人生を捨てようと旅した途中で立ち寄った。
今年の初めに病院に入院したり、こうして仕事で東静岡に行けたりしてさ、思い出す・縁のある年なのかなぁ、とか。なによりさ、今年で僕もその人の亡くなった年齢になろうとしているんだよね。よくここまで生きてきたなぁ、と思うよ、ほんと。