なんとなくリハビリで書いた現代小説・『白い恋人』
平刀を握り締めて、角度を垂直に保ち、白い体の表面に刃先をあてがって体重をかける。
ごり、じょり……じゅじゅ……
薄くスライスしたホワイトチョコレートかと思う屑と、脱脂粉乳に見紛う粉がテーブルに敷いた新聞紙の上に広がった。
里崎俊介は片手で対象の白い塊を抑えているが、まだ生暖かいその温もりは、皮肉にも愛しさを込めて触れ合った女性の肌と全く同じものに感じられた。
俊介は額に脂汗をかき、眼鏡の奥の眼差しに恋しさと悔しさの感情を綯い交ぜにして、垂直に傷のついた白い塊をじっと見つめた。
平刀を握る手の小刻みな震えは、脆弱な心身の状態を示すものだけでなく、白い塊を傷つけることに確かに逡巡しているものであった。
「僕は、傷つけるのか。自分の愛した人を。この僕が……」
眉根を寄せて、唇をぐっと噛み締めた。悔しさをどこに解放していいのか分からない。ただ彼女に対して何もしてあげることのできなかった己を責めるばかりだった。
口を開くと、怒りの息が虚空に吐き出される。拳は震えた。
頭を垂れて心を鎮め、平刀に思いを宿して、白い塊を再び削り始めた。
一番傷つけてはいけない人物を傷つけるような行為がこの上なく苦しみを伴うものでも、これが彼女の魂への贖罪なら、乗り越えなくてはいけない壁だ。
俊介は、白い塊を一心不乱に削り続けていく。
双眸を見開き、上腕二頭筋に力を込めて刀を巧みに操り、クロッキー帳にスケッチしていた形状に徐々に近づけていく。
「美香子、これが僕のできる最期の、君への愛なんだ」
平刀をテーブルの上に置き、カッターナイフに持ち変えて、軽やかな手捌きで、荒削りの部分を滑らかな平面・曲面に整えていく。
往復運動の回数が増すたびに手首の動きが速くなる。
数分間、その行為を繰り返していたが、つと窓の外の明かりに反射する雫が、新聞紙の上に落ちた。
俊介は滲んでいく雫を呆然と見つめた。
カッターを持ったままの手で、自分の顔に触れてみる。
気づかぬうちに、頬を濡らしていた。
涙を流している自分に今更ながら驚き、手首の動きにも間隔が空く。
美香子への魂の供養のはずが、傷つけているという加虐的な念に苛まれなければいけない。それは想像以上に胸を締め付けてくるものだった。
「ごめん……」
謝っても無駄だと分かっている。愛しき人は、もう二度と目の前で微笑んではくれない。
ほんの一週間だけだった。美香子と親密に心を通い合わせた時間は。
美香子の影は、悠久の光の中へ、流動体と化して、混じり合い薄れていった。
彼女を助けられなかった俊介は、「ごめん」と呟くことしかできない。
涙で視界が霞むのも気にせずに、自身の感覚を頼りに、カッターで切削していく。
手を止めてはいけない。止めれば、脆弱な心に負けることになる。亡くなった美香子に心配をかけることになる。
小首を傾げて、「どうしたの?」と厚情を込めて呼びかけてくる様が蘇ってくる。
俊介は、誰もいない部屋で弱々しくも笑って応えてみせた。
「大丈夫。僕は、僕のするべきこと、君のためにできることをしなきゃいけない」
亡くなった魂を傷つけているかもしれない。その罪悪感に耐えた。
自分の心を鋭利な刃物で切りつけている錯覚にも意志を強くさせ、こらえた。
「やり遂げてみせる」
テーブルの上に置かれた石膏は、一人の女性の顔形を形作っていた。
俊介が生涯ただ一人愛し、天に召された女性の顔だった。
真っ白な双眸は、明るい日差しを見つめ、一笑している瞬間を精密にとらえていた。
反射して輝くその瞳は、けれど、永訣した想い人をなお恋慕し、潤んでいるようにも見えた。
おわり